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こっそり覗く桜さんの横顔は、みんなが言うように氷で築き上げられたようだった。
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興味という熱のない瞳は、目の前の景色を映すばかりの鏡のようだった。
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中学三年、春。進級してクラスが替わって自己主張を控えていたら、いつの間にか図書委員に割り当てられていた。正確には文化委員とか、そういう言い方だったけど内容が図書室の当番なのだから図書委員でいいかなと思う。そして早速、一回目の当番を命じられた。
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カウンターには私と、そして桜さんが座っている。
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正直、緊張していた。
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桜さんとは一年生の時も同じクラスだったけど、話したことがない。でもどういう人かは遠くから見ていても分かっていた。愛想の欠片もなくて、冷淡で、口数が少なくて。
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そして、その横顔は透き通るように綺麗だ。
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だから、氷の彫像とでも評されるのだと思う。今、私もそれを実感してしまった。
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とはいえいつまでも、その横顔に見惚れるように眺めているわけにもいかない。
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深呼吸の後、意を決する。
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「あのぅ……」
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小声で控えめに呼びかける。輪郭を失うように判然としなかった桜さんの瞳が固まる。
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「……なに?」
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少し遅れて、桜さんがこちらに向く。興味の一片も抱いていない、つるつるとした瞳が間近で私を見つめた。本当に、周りのことなんてどうでもよさそうな雰囲気だ。当番に参加してくれたことが凄く貴重に感じる。そして、果たして二回目は出てきてくれるのだろうか。
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今日みたいに昼休みならともかく、放課後には絶対出てきてくれない予感があった。
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「いや仕事、当番……カード」
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さっきから目の前に、本を借りようと女子が立っているのに。
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いつまで経っても動こうとしないのでやむなく、声をかけて気づかせるしかなかった。
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「あ、そう」
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桜さんがようやく動く。前を向いていたはずなのに、まったく目に入っていなかったみたいだ。桜さんが特に慌てることなく、貸し出しカードの処理を始める。待たされている女子はなにか言いたげな顔つきで腰に手を当てているけど、桜さんがまったく意に介していないためか、どう出ればいいのかと手をこまねいているようだった。そうこうするうちに桜さんの作業が終わって貸し出しの準備が整う。待たされていた女子生徒は不承不承、カードに名前と日付を記入する。その前屈みとなった頭を見つめる桜さんが、ぼそぼそと口を動かす。
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「……待たせてごめん」
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最初、女子生徒も自分が言われたと分かっていないみたいだった。桜さんが目を逸らした後、ようやく女子生徒が顔を上げて反応する。女子生徒は「あ、うん」と曖昧に頷くしかなかった。
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隣で聞く私もまた、大した言葉は出てこない。謝れるんだ、と驚いてしまった。もっと傍若無人な性格を想像していたので、その素直さに面食らってしまう。
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でも桜さんは仕事に対する反省は特にないようで、またぼうっとしている。
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私もまたその横顔をひっそり見つめるのだった。
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桜さんは教室でも似たような姿勢だった。誰かと話すこともなく、連れ合うこともなく一人で動く。孤立ではなく、孤高であり続けるようだった。その証拠に、桜さんは常に独りでありながら他の人に嫌がらせを受ける様子もない。手を出したら、冷徹に反撃してくる。そんなイメージが強いからかもしれない。だからかみんな、意図して桜さんを避けていた。
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私もこれまではその仲間だった。けれど、間近で見る桜さんに、自然、目を引かれる。
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『近づきがたいもの』をこんな近くで眺められる機会はそうそうない。
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そう、見るだけでいいのだ。
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桜さんは人目を惹く。男子にも人気がある。けれど誰も触れようとはしない。
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氷は冷たく、鋭く、そして脆いものだから。
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案の定、二回目から桜さんは当番に出てこなくなった。放課後の当番だから、予感的中である。嬉しくない。どうしょうと、カウンターの椅子の上に中腰となって考える。座るか、出ていって探すか。まだ学校にいるのだろうか。迷い、うろうろ腰を揺らし、結局探しに行くことにした。すぐ帰ったとしてもまだ、下駄箱あたりにいるのでは、と思ったからだ。
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カウンターを空っぽにする時間を短くするため、図書館を出てすぐに走る。階段を蹴飛ばすように降りる。こんな風にめいっぱい走るなんていつ以来だろう。少なくとも冬の間にこんなことはなかった。冬にはとても動き回る気になれない。春はこんなところにもやってきていた。
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果たして急いだところ、桜さんは見つかった。
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下駄箱で靴を出している桜さんが、飛び込んでくるこちらを向いた。
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自分に用事があるとは考えなかったらしく、すぐに顔を戻す。
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「ちょっとちょっと」
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声をかけながら桜さんとの距離を詰める。少し、どきどきした。
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桜さんが、やっぱり自分に用があるということになり、面倒そうにもう一度振り向く。
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「図書当番。今日、なんだけど」
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「あ……そんなのもあったか」
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忘れていただけらしい。桜さんが私と下駄箱を交互にきょろきょろする。
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そして一度頷くと、そろーっと、校舎の外に向かって歩き始めた。
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「あ、こらこらこら、ダメだって」
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少し腰が引けながらも桜さんの制服の袖を摘む。桜さんは振りほどきこそしなかったものの、億劫そうに振り向く。目と眉にやる気の欠片も載っていなかった。すっきりしたものである。
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「あれ、二人いなくてもなんとかなるんじゃないの?」
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言い逃れの割には案外、痛いところを突いていた。確かに長蛇の列ができるわけでもないし、一人でどうにでもさばけるのは事実だった。というか前回も桜さんはほとんど働いていない。
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だけどそれでは、私が困る。桜さんがいないと、図書室に留まる意味も薄い。
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「いやでも、当番だし」
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気の利いたことが言えなくて無難に責任を語る。そう言われると桜さんも反論しづらいのか、渋々と言った様子で下駄箱に靴を戻した。この間、謝ったときといい桜さんには良識があるみたいだ。イメージと嚙み合わなくて意外だけど、案外、普通の人なのかもしれない。
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上履きを履き直した桜さんと一緒に歩きながらそっと、桜さんに触れた、正確には服だけどその手をジッと眺める。
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そこには凍りついた指などなく、いつものようなうっすらとした赤さが芽生えるだけだった。
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図書館へ桜さんを連れて戻る。桜さんも特に抵抗はせず受付の席に座り、それからは前回のようにぼうっとするばかりだった。眠いのか、退屈の象徴なのかあくびも時々こぼす。
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私のように、図書室の本を読んで時間を潰すようなこともない。
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ジッと座ったまま、なにを考えているのだろう。早く終わらないかとか、そういうのかな。
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興味が湧く。桜さんほど、よく分からないものはないからだ。
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「本とか、読まないの?」
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少しばかりの勇気を持って、話しかけてみる。桜さんは頰杖をつきながら答える。
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「好きな本は読む」
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どう取ればいいのか曖味な答えだった。多分、桜さんが理解を求めていないからだ。
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「よかったらなにか、面白いなーって本紹介しようか?」
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私なりに、桜さんとの距離を縮められるかと期待して、なけなしの勇気を用いる。
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でも。
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「え、いや別に、いらない」
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桜さんが手を小さく横に振る。それからすぐ、前に向き直ってしまった。
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私は呆気にとられる。善意に対する多少の愛想とか、そういうものもなく。かといって煩わしく感じている様子もなくて、無味無臭な態度を一貫している。
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本当に興味ないんだなぁと。むしろ、こっちは興味を湧かせてしまう。
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一体、桜さんの気を引けるものってなにがあるのか。ちらりちらりと横顔を覗く。
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図書委員が、こんなに刺激的なものになるとは思わなかった。
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手にしていた本を目にしてページをめくっているはずだけど、なにも頭に入ってこない。
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桜さんとのなにか、きっかけを探す。探す。けど、あるはずもない。
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つるつると磨き抜かれた氷の表面は冷たいばかりで、なにも寄せ付けない。
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相手からの接触なんて待っても百年やってきそうにない以上、こっちから動くしかない。
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そして相手を知りたければ話すことだ。とにかく会話するしかなかった。
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「桜さんって、えっと、休みの日になにしてるの?」
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「別に、なんにも。寝たり、横になったり」
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それ、同じじゃないのかな。そしてなにかごまかす様子もないから、本当にそうなのだろう。
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桜さんが噓をつかないのは素晴らしいけど、これじゃあ、話にならない。
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「あー、じゃあ……桜さんって成績いいの?」
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「普通かな」
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「あ、そっか……へぇ」
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返事をしてくれるだけマシかもしれない。無視されるのが一番辛かった。
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今はその次くらいに辛い時間だけど。
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こんな探り方では、桜さんのつかみ所なんて見つかるはずもない。
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もっと、路み込まなければ。
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それは桜さんの氷を割ることになるのだろうか。
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それとも私が足を滑らせて、転ぶだけか。
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悩んでいる間、目が遠くなる。端が真っ白に近づいていく。
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大粒の涙をこぼすように、俯いた口から声が漏れた。
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「桜さん、友達、いる?」
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その問いかけへの返事に、間はなかった。
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「いない」
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断言する。真っ白なものが雪崩のように降り注ぐ。そんな、力強さを感じた。
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本の角に添えていた指が、ゆるゆると震えた。
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「そうなんだ」
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「うん」
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じゃあ、だったら。
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喉が震える。
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私と友達にならない?
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そう言いたかった、言おうとした。でも、すぐに言葉は出てこなかった。
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私は学校に、何人も友達がいる。だけど面と向かって友達になりませんか、なんてまるでお付き合いを申し込むようなことをして、友達を作ってきたわけではなかった。だから咄嗟に、羞恥や断られたときへの恐怖やらが押し寄せて、それをはね除けるのに時間が必要となる。
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ここでそれが先に言えていれば、なにかが変わったのかもしれない。
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けれど。
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桜さんは真っ直ぐ前を向いたまま、独白のように言った。
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「私は、それでいい」
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氷には、ヒビの一つも入っていなかった。
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澄まして滑らかに。冷たく、固い。
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その横顔を見つめてしまえば、出かかっていたそれも逃げ出すしかなかった。
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「……そうなんだ」
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対する私の返事もまた、独白に等しかった。
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だから今度こそ無視されて、そこで、あぁと、諦めを納得する。
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それ以降、私は桜さんを見ているばかりになった。積極的に話しかけることはなく、桜さんが当番をうっかり忘れていても誘うこともなかった。でも大抵は当番に出てきてくれて、そうすると私は図書委員を務める間、本を読むフリをしながら桜さんの横顔を覗き見るのだ。
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そこまでが、私に許されたことなのだとわきまえていた。
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綺麗で薄い、桜色の唇を見る度に感じる。
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私は多分、なにかを失敗した。そんな気がする。苛まれる。
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でも失敗して尚、桜さんを見飽きることはなかった。
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二学期になって所属する委員が変わり、私と桜さんの小さな接点はぷっつりと失われた。
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教室は一緒だったけど話しかけるようなきっかけも見つからず、更に言うと桜さんは欠席の日数も段々と増えてきていた。面倒くさくなると学校に出てこなくなるみたいだった。
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そうしてその後、私と桜さんとの間になにかあるわけでもなく、当たり前の流れに乗って卒業式を迎えた。桜さんは卒業式にも不参加なのではと危惧していたけど、一応出てきていた。でも多分、私のことは覚えていないだろう。退屈そうに俯いて身を固くしていた。
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私はそんな桜さんを遠くから見つめる。
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桜さんは列の先頭にいるけど、時々、頭が左右に揺れていた。
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校長先生の長話が終われば、そうした桜さんの後ろ姿を追うこともできなくなる。
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今だけは、いつも疎ましく感じるその舌が乾くことのないのを願った。
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卒業式が終わり、解散して各々がグループを作るなり、体育館の外に出るなりと思い思いに動く。私はある種の予感を持って、友達の輪から離れて足早に外へ出た。
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学校の中央通りに揃えて生える桜の木にはうっすらと、花びらの色が見え始めていた。
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咲くにはまだ早く、春の芽吹きを待つ季節。遠くに映る微かな桜色を一望していると、その下を歩く見慣れた背中があった。見た瞬間、足が動く。肩が揺れる。走り出していた。
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「桜さんっ」
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名前を呼びながら詰め寄る。桜さんがゆっくりと振り返った。
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訪れようとする小さな春の下でも、桜さんの氷は堅牢を保っている。
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私のことを一応覚えていたのか、その目が微かに動いた。
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「なに?」
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誰とも名残を惜しむことなく、静かに去ろうとしていた桜さんだ。
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私の知っている、いつも見てきた桜さんだった。
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なんでか、その素っ気ない態度に触れて嬉しくなってしまう。
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「その、元気で、じゃなくて……」
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思ってもいない言葉を口にして、なんの意味があるのだろう。
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これが最後だと思えば、自分を投げ捨てるような感覚で勇気が湧く。
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捨て鉢?足の裏からひっくり返る?前のめり?
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そんなイメージが、自分を鼓舞する。
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伝わらないと分かっていても、伝えたいものがあった。
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だから私は彼女に言う。
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「ありがとう」
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お礼の言葉を、だ。
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なにが?と聞きたそうに桜さんの目が細くなる。それは、桜さんという人間を無防備に観察できる時間を与えてくれての、極一時でも与えてくれた剌激へのありがとうなのだけど、きっと大まじめに語ったところで桜さんの心に響くものではないと思った。
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細かく届けたいことでもなかった。
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そういう理由があって、笑う。桜さんはしばらく訝しむように表情を硬くしていたけれど、やがて「よかったね」と短く、冷たく眩いた。興味の一片もない、形だけの返事。
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届くと寒気を覚えるような、鋭利な冷たさが胸に染みる。
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うん、よかったよ。
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口の中でだけ返事をする。そして桜さんは別れを告げることなく離れていった。
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そのまま私は、背中にたくさんの声の大賑わいを聞きながら桜さんを見送る。
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ほどなくして。胸に届いていた氷の塊が、溶け始める。
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それは不思議と、胸や脇のあたりへと温かさを伝えるのだった。
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これから先、もし桜さんを町で見かけても話すことなんかないだろうけど。
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だからこその、ありがとうだった。
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花びらのようにゆらゆら、その背中が遠くなる。
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桜さんはその名前に相応しい桜色の景色へ、振り返ることなく溶け込んでいった。
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